梅雨葵 10


「ていうか、どしたのその格好? 泥だらけだよ」


 会うなり、雨音は指をさして笑った。何を話すか昨年からたくさん頭に並べていたあったのに、ここに来るうちに全てこぼれ落ちてしまった。
 かわりに口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。


「天気予報……ずっと、来週も、晴れだったから。あと、ごめんなさい……。ギター、持ってこられなかった」
「え?」


 息はまだ整っていない。少しづつ、雨音のそばに寄っていく。


「ギター、すごく上手くなったんだ。学校で練習して、すごい上手くなって、それで友達も出来た」


 うまくしゃべれない。浮かんだ言葉をそのまま垂れ流すように再生した。


「弾き語りも、出来るようになったんだ。本当だよ? だから、それ、雨音に聞かせたかったんだけど」


 倒れこむように、雨音の横に座る。肩でしていた呼吸が、少しづつ楽になっていく。


「お父さんのギター、売っちゃたって、それで、持ってこれなかった。ごめんなさい――!」
「謝ることないよ。もう、そんなに息切れしてたら、歌えるものも歌えないよ」


 雨音は傍らのハードケースから、久しぶりに目にするそれを取り出した。


「ギターなら貸してあげる。この子を使って歌って。チューニングなら済んでるから」


 言って大花が描かれた綺麗なアコギを、汚れるのも構わないというふうに渡してくる。それは一年前に初めて持ったときよりも、妙に手に馴染む気がした。


「いいの? 大事なギターでしょ?」
「うん、もちろん。それにしても、大志、本当に背伸びたね。少しはギターを持つ格好が様になってきたんじゃない?」


 いわゆる成長期というやつなのか、この一年で10センチは背が伸びている。声変わりも始まって、日に日に高い音を出すのが辛くなってきていた。
 そんなことも話したかったのに、突然ふたりの間にあいつが割って入ってきた。


「――あ、こらノラさん! びっくりさせないでよ。元気にしてた?」


 やはり会いたくて仕方なかったのか、ノラさんは野良猫であることを疑わせるような甘えた声を出して寝転んでいる。触ると引っ掻かれるので、手は出さないようにしよう。


「ほら、観客は揃ったよ。成長したのは、身長だけじゃないんでしょ?」


 促されて、左手をネックに添え、右の肘を軽く曲げてボディにあてがう。
 次にコード。まず親指が六弦に軽く触れる。握りこむように持って、薬指が2弦の2フレット、中指が3弦の2フレット。人差し指と小指は他の弦に当たらないようにする。
 指に、プレーン弦の柔らかさが伝わる。弦を切ってしまわないか不安になる。力むとすぐに弦を切ってしまうのが、僕の悪い癖だ。


 肝心のものがないと雨音の方を見ると、右手の手のひらに、セルロイドの白いピックが渡された。形はティアドロップだ。


「それがピックね。人差し指と親指が交差するように握るの。こんな感じで」


 いつかのやり取りを覚えていたのか、からかうように雨音は言った。


「知ってるよ。最初に、雨音に教わった」


 かつて見様見真似で持ったそれを、慣れたように持つ。もう、呼吸は落ち着いた。




「さ、君の歌を聴かせて――」




 6本の弦を全てかき鳴らすようにピックを振ると、綺麗な響きがあたりになった。
 悲しいような、明るいような、それでいてそのどちらでもない開放弦で構成された不思議な和音が、振った右手に合わせて流れるように鳴っている。
 握った左手の指の形が変わるたびに、音は意味を変えて響く。息を吸った。


 僕は、消え入りそうな雨粒の音とアコギを伴奏にして、静かにあの歌を歌い始める。


 歌詞は完全に覚えていた。言葉をたどるその都度に、公園での思い出がいくつも浮かんで、溢れてくる。
 指が赤くなるまでやったコードの切り替え、拍をきちんと取れるように練習したストローク、アルペジオ。
 日が暮れるまで話したこと、そのせいで怒られたこと、宿題を手伝ってもらったこと、一緒にノラさんのノミ取りをしたこと、そのノラさんに練習を邪魔されたこと。


 Bメロのセーハも難なくこなす。どうだと言わんばかりに誇らしげに、雨音を見ると「おー!」と手を合わせて、驚いたように笑っていた。
 できたのは僕の方なのに、自分のことのように喜んでいる雨音のことがおかしくて、僕も笑いそうになる。


 サビ。高くなる音程に、喉は不安定に揺れる。でもそれを押し返すように張り上げる。
 裏声も混ぜて、無理のない範囲で力強く音を伸ばす。間奏を挟んで、2番を始める。
 ここから先は、ギターの伴奏でさえ雨音も聴いたことがないはずだ。少し力を緩めて、優しく歌う。もう何も不安じゃなくなっていた。雨音は見守るように、歌を聴いている。


 二番のサビが終わると転調し、コードの種類がガラリと変わる。雨音が僕に意地悪してるんじゃないかというほどに、次々と新しいコードが現れた。
 その一つ一つを解釈して、飲み下して、自分のものにするのは大変だった。セーハのときよりも、驚いているようだ。
 その表情は、僕の歌を聞いてくれたクラスメイト達に少し似ていると思った。


 曲は、最後へ向けて静まるように、同時にこらえきれない思いを表現していく。
 詞に沿うように、風のない穏やかな空をしていた。こぼれないように一旦上を向いて、大きく息を吸った。
 恐る恐る、僕は最後の歌詞を歌い上げる。



こぼれた空の海の青を忘れないで
雲がそれを遮ったとしても
その向こうに君なら手が届くはずだ
もう大丈夫だね だから行くよ


葵花咲く 快晴の青空の下




 顔を上げて天を仰いだときには、街に降り注ぐ雨粒の音は消えていた。雨音は立ち上がって拍手をする。
 それに驚いて、ノラさんが毛を逆立てながら飛び上がった。ごめんよと、なだめようとしてもそっぽを向かれていた。


「――すごいよ大志。たった一年で、こんなに上手くなってるなんて」


 その言葉が聞けて良かった。信じて、弾き続けて良かった。好きになって良かった。
 そして僕は、ギターをベンチに置く。ピックを握り締めながら、強く芽生えていた夢を初めて打ち明ける。


「ありがとう、雨音。でも、もっとうまくなりたい。――世界中の人達に、僕の歌を聴いて欲しいんだ。だから、もっと雨音に教わりたい」


 雨音は何かに驚いた顔になる。と思うと、すぐに笑顔が浮かぶ。しかし今度は、どこか悲しい表情へと目まぐるしく変化していく。
 いろいろな表情が混ざった、悲しいような、嬉しいような、不思議な顔で雨音は言う。








「ごめんね。それは、無理っぽいかな」


 雨音の頬を伝った雫は、地面に落ちて吸い込まれていった。


「どうして!?」
「私、幽霊だから。この世に思い残したことがなくなると消えちゃうんだよ」


 そんな――。せっかくこんなに上手くなったのに。なんで、どうして。
 言いようもない悔しさと憤りがこみ上げる。また一年経てば会えると思っていた。そうして毎年少しづつ教えてもらって、そんな風にずっと会えるものだと思っていた。
 手からこぼれ落ちてしまったピックも気にせずに、僕は立ち上がって雨音に聞く。


「僕に友達ができたから?」
「ううん。大志に友達ができて私は嬉しいよ」
「雨音の未練って何?」
「教えてあげない。ほら、そんな泣きそうな顔しない」
「そんな顔、してない――!」


 ついに堪えきれずに、ボロボロと涙が落ち始める。袖で拭っても止まらない。ちぎれてしまった雨雲のかわりのように泣く僕を、雨音は抱きしめてくれた。


「背だって、もうすぐ追い付く!」
「うん」
「ずっと教えてくれるって、約束したじゃん!」
「ごめんね。大志が大勢の人から拍手されるところ、私も見たかった」
「ノラさんだってさみしいよ!」
「うん」


 名前を呼ばれたノラさんが、雨音の足元に擦り寄る。普段はほとんど寄り付きもしないくせに、今日は甘えてばかりだ。
 僕を放してしゃがみ、その小さな頭を撫でようとした彼女の右手は虚しくすり抜ける。あの日のように、雨音の向こうの景色が透けて見え始めた。


「――もう、お別れみたいだね」


 立ち上がりこちらを向く。涙の跡は乾いて、もう分からなかった。


「雨音に会えて良かった」
「私も、大志に会えて良かった。君に会えて、私の人生は意味を得て最後に輝いた」


 透けた向こうの花に重なって、もう表情はほとんど見えない。それでも、笑っているのはわかった。


「雨音、ギター忘れてるよ」


 僕はベンチに置いてある、美しい花の描かれたアコギを抱え渡そうとするが、雨音は首をゆっくり横に振った。


「大志にあげる」
「いいの? 大事なギターでしょ?」
「大志に使って欲しいの。その子のためにも。きっと、君をいつまでも支えてくれる」
「――ありがとう。大切にする」
「約束だよ? その子と一緒に、世界中に歌を歌って」
「約束する。雨音に聞こえるように、大きな声で歌う!」
「うん、待ってる――!」


 雨音がそう言うと、雲で遮られていた快晴の日差しが降り注ぎ、僕は思わず目をつむってしまう。




 目を開けた時には、雨音の姿はどこにもなかった。




 足元にいたノラさんが不思議そうに辺りを見渡していたが、探すのを諦めたのか、今度は僕の足元にまとわりついてくる。
 ふてぶてしい顔は、すこしだけ寂しそうだった。しゃがんで背中をなでると、ゴロゴロと気持ちよさそうに鳴き始めた。


 公園に残ったのは、快晴の青空の下で一人ギターを抱える僕と、雨宿りができそうな背の高い木と、かわいげのない猫と、隅で咲いている大きな花だけになった。
 梅雨明けを知らせるその花の名前を、僕は去年調べていた。


 見上げるような梅雨葵の花は、その頂点まで全て、日を仰ぐように咲き誇っていた。