梅雨葵 9


 季節はあっという間に一周し、また梅雨の時期がやってきていた。ただ、いつもの梅雨とは決定的に違う点があった。


「見てあなた、来週までずっと晴れマーク! 乾燥機使わなくてよさそうね」
「今年は空梅雨か。農家の人は大変だろうな。こりゃ電気代は浮いても、レタスとかキャベツとか値段は上がるぞ」


 家族で朝食を取りながらニュースを見ていた。我が家は家計の心配をしているようだが、僕の心配は全く別のところにあった。
 もう七月。夏休みが近づき浮かれ出す時期がいよいよ近づいているというのに、まるで雨が降らない。
 多少曇る日はあっても、雨は降らない。てるてる坊主を逆さまにして吊るしているが、効果は全くない。


 これじゃ雨音に会えない。一応毎日公園に寄ったが、あの歌もギターの音も聞こえてくることはなかった。


「どうしたの大志? そんな顔して」
「何か、嫌なことでもあったのか」


 何でもないと言って食器を片付け、身支度をして玄関を出る。今日も天気予報のとおり、一点の曇りもない青空だった。
 晴れ渡る空とは逆に、僕の心は暗く沈むばかり。とぼとぼと学校へ通い、上の空で授業を受けている。


 このために一年間ずっとアコギを弾いてきたのに、なぜこんな天気が続くのか。
 こうなると分かっていたなら、一生懸命アコギを弾いていたのがバカみたいじゃないか。


「大志くん、今日は元気がないね。どうしたの?」


 ろくに授業を聞いていなかった僕を心配してか、放課後、布川先生が声をかけてくる。僕はもう六年生だというのに、半ばダダをこねるように先生に聞く。


「布川先生、どうやったら雨って降りますか?」
「雨? 人工的に雨を降らせる機械は聞いたことあるけど」


 何バカなことを聞いているのだ。そんなこと、出来るはずがないとわかっているのに。


「天気予報って、どのぐらい外れるんですか?」
「うーん、先生もちょっとわからないわ。ただ、空の上から地球を見るカメラがパワーアップしてから、天気予報は正確になっているらしいわ。どうしてそんなに天気のことを?」


 天気予報は正確になっている。つまり、来週一週間はずっと晴れというのはほとんど当たるということだ。
 先生の言葉は気休めになるどころか、さらに僕を落胆させることになった。


 そうですか、と生返事をして僕は教室を後にする。クラスの友達に遊んでいこうぜと誘われたが、具合が悪いからと断り僕は家まで帰る。
 照りつける太陽が、憎らしくて仕方なかった。


***



 土曜日。憂鬱な気分で僕は目を覚ます。時計を見るとまだ5時、薄暗さが部屋を包んでいた。
 夏休みのラジオ体操の時間より早く起きてしまったようなので、まだ重いまぶたはそのままに、再びベッドに潜り込もうとする。
 だが、すこしだけ目を覚ました脳が、いつもと違う違和感を訴えている。そうだ、この季節、五時だったらもうとっくに明るく――、


(――まさか!)


 飛び上がってカーテンを乱暴に開く。


「うそ……!」


 窓の向こうは雨模様一色に染まっている。雨足は弱いが、確かに雨粒が道路の水たまりに波紋を作っていた。
 一割以下の降水確率を越えて、待ち望んだ雨がやっと降ったのだ。


 雨音に会いに行かなくちゃ。僕は大急ぎで服を着替える。焦りすぎて何度もボタンを掛け違える。
 左右で違う靴下を履いてしまう。開け慣れた部屋の開き戸を逆に開こうとして、頭をぶつける。
 ドタバタと騒がしい音を立てながら階段を降りて玄関へ行き、慌てて引き返す。肝心のギターを持っていなきゃ意味がない。


 練習は学校のギターでやっていたが、土曜日なので学校は閉まっている。先生に頼み込もうとしても、こんな早くにはいないはずだ。


 そうだ。雨音に教えてもらっていたときみたいに、お父さんのを使おう。僕は父の書斎に忍び込み、ギターを探す。
 が、おかしい。見つからない。久しぶりだから、置場所を間違えて探しているのだろうか。


「お父さん! 起きてお父さん!」


 時間が惜しい。この際、直接聞いた方が早いと考え、両親の寝室のドアを開け、お父さんを叩き起こす。


「うーん、なんだ大志? お父さんはまだ……」
「お父さんのアコギはどこ? ちょっと貸してほしいんだ! 壊さないから、絶対」
「アコギ? ああ、マーチンのか。あれなら先月売ってしまったよ」


 そんな――。家にある唯一のアコギはもう失われていた。僕がよほど悲痛な顔をしていたのか、心配そうに何か声をかけてくれるが全く耳に入らない。
 学校になんとか忍び込んでアコギを持ち出そうかと思ったが、僕の足では往復で一時間程かかる。
 この弱い雨では、それまでに止んでしまうかもしれない。恐らく、きっと、今日を逃せば、雨音に会えるのはさらに一年後だ。


 ダメだ、それじゃダメだ。でも、それでも、ギターがなくても、雨音に会いに行かなくちゃいけないことは分かった。
 僕は弾き出されたように、玄関まで三段飛ばしで階段を駆け下りる。


「ちょっと大志! こんな朝早くからどこいくの?」


 騒がしさに目を覚ました母が尋ねた。


「友達のとこ!」
「朝御飯は?」
「いらない!」
「外は雨よ、傘は?」
「傘もいらない!」
「あ、こら――」


 その短い会話すら時間が惜しく感じられた。僕は傘もささずに、雨空に飛び込む。
 強さのピークは未明だったようで、すでにあちらこちらで雲の切れ間から光が差している。雨が止むのは時間の問題だった。


 僕は走る。運動会の百メートル走だって、こんなに速く走ったことはない。ぬかるみも気にせずに踏み抜く。
 途中すれ違ったトラックに泥水をかけられる。もう体中が、泥だらけの真っ黒だった。
 雨音に笑われるだろうか。それでもいい。一秒でも速く会いたい。心臓が破れそうだ。それでもいい。全力で、ただ全力で僕は走った。


 公園の通りまで来る。だが、いつもの歌は聞こえない。信じたくない。雨音が休んでるだけだ。
 そう思い込まないと、今にも足を止めてしまいそうで怖かった。もう雨空と呼ぶには明るすぎる空、水たまりにもうほとんど雨粒の波紋はできていなかった。
 そんな不安をかき消すように、一歩でも早く前に進むために、水たまりを踏んでいく。
 お願いだ、まだ止まないでくれ――!






 公園にたどり着いた頃には息も絶え絶えで、立っているのがやっとの状態たった。
 脳みそに酸素が行き渡っていない。視界と意識はぼやけてしまう。公園に誰かいるのか、さっぱりわからない。


「あま……ね……!」


 声を搾り出すが、返事はない。でも、ゆっくりと、呼吸が落ち着くにつれて景色がはっきりしてくる。


 その公園は小さな空き地のようなもので、遊具らしい遊具はない。
 隅の方に大人でも見上げるような薄ピンク色の美しい花と、ちょうど雨よけになりそうな大きな木が生えていて、人が休めるようにとベンチが置いてあるだけだ。




「やあ、大志。――久しぶりかな? 背、伸びたね」




 ベンチで、傘もささず、背が高くて髪の長い女の人が座りながらギターを抱えていた。
 儚げで消えてしまいそうな、それでいて咲き誇る傍らの花のように、高貴な美しさをまといながら。


***