梅雨葵 8


 二学期も始まり、蒸し暑い中教室での授業が再開した。
 雨音にちゃんと勉強もしなさいと言われたので、仕方なく黒板をノートに写していたが、やはり頭の中は歌とギターのことでいっぱいだった。
 放課後になり、クラスのみんながざわつき始めたのと同時に、布川先生に断ってこっそり音楽室を開けてもらう。


 楽器棚からアコギを取りだしいつものようにチューニングする。夏休みの間に使い込んだアコギは、ピックの傷がたくさん出来ていた。
 一方で、いつしか左手の指先は硬くなり、皮膚も厚くなってきている。コードを押さえても、指が痛むことはなくなった。


 入口に背を向け、黒板の方を見て椅子に座り、アコギを抱え、ピックを持つ。もうノートを見なくても、コードも歌詞も覚えきっていた。
 それでもまだまだ歌が上達しないので、今日も僕は歌う。自分が思うより少し大きな声で。
 積み重ねた小さな経験から、大きな声を出そうとするほど音が安定するのをなんとなく感じていたのだ。


 歌詞は一番を歌い終わり、間奏をまたいで二番を歌おうと息を吸い込む。その時だった――。


「大志くん?」


 急に声を掛けられ、演奏の手と歌は止まる。振り向くと、入口にクラスメイトが何人か立っていた。


 冷や汗が滝のように流れる。見られた。あのリコーダーのテストの時のようにバカにされる。
 どうし――


「すげぇ! ギター弾けんの?」
「もう一回弾いて!」


 予想もしなかった声援がクラスのみんなから聞こえてきた。僕は言葉を返す代わりにこくりと頷き、またギターを構える。
 僕は合唱も苦手で、歌のテストも緊張してうまく歌えないのに、不思議とギターを持つ今はそういったものを感じないようだった。
 息を吸い、途中停止した二番からもう一度歌い始める。


***



 季節は秋。いつしか僕は学校の有名人になっていた。
 クラスの子達とも緊張せずに自然に話せるようになり、一緒に遊ぶ機会も少しだけ増え、クラスにいても、ずっと胸で反響していた雑音は聞こえなくなった。


 そうなっても、雨が降ったときは一人であの公園に通っていた。秋の長雨が降っても、やはりあの歌もアコギの音も聞こえない。
 今日も一応公園を覗くが、誰もいないようだ。梅雨入りから夏にかけてのものとは景色が違う。どこか、寂しい雰囲気だ。
 多分、公園に咲いていた大きなあの花が枯れてしまい、色どりが失われているからだろう。


 ベンチまで進み、右寄りの位置に座る。たった数ヶ月前のことなのに、ずいぶん遠くのことに思えた。
 ギターがないので練習はできない。だからかわりに思い出に浸っていると、すっ――と、隣に何かが現れた。


「ノラさん!」


 久しぶりの再会だった。武闘派猫らしく、相変わらず喧嘩が絶えなかったのか、体中泥だらけではあるが大きな傷は見当たらない。


「元気にしてた?」


 そう言って優しく背中を撫でようとしたら、思いっきり手を引っ掻かれた。相変わらず可愛くない猫だ。
 そんなノラさんは、どこに行くわけでもなくすっと僕のとなりに座っていた。時々、何かを探すように辺りを見渡すが、すぐになんでもなかったかのように無表情になる。


「ノラさんも、雨音に会いたい?」


 そう声をかけるとちらりとこちらを見て、これまた可愛げのない声で鳴いて、またすぐに視線を落とした。
 猫の言葉はわからなかったが、きっとノラさんも結構雨音のことを気に入っていたのだと思う。そうだといいなと、勝手に解釈した。


 あと八ヶ月と少し。雨音に会えるまで、どれだけ上達できるだろう?
 もっとうまくなりたい。雨音を驚かせるほどうまくなりたい。でもこの時、僕の中にはもう別の、それ以上の強い思いが小さく芽生えていた。


***