梅雨葵 6


 ギターを弾き始めて一週間は経った。
 本当は家でも練習したかったが、ギターの音もなかなか大きく近所迷惑になるので、何度も公園へギターを持ち出して雨音と練習を繰り返した。
 時々ノラさんが現れては練習の邪魔をされたけど、それでもいつのまにか覚えたコードは五つを越えている。


「やれば出来るじゃん」


 雨音は、ギターのことでは滅多に褒めてくれない。だからそんな言葉をかけてくれるのが珍しく、照れくさく返事をしてしまう。


「それほどでもないよ。ちょっと本気を出しただけ」
「でもBメロと、サビのC♯メジャーは苦手なのかな?」


 舞い上がったのも一瞬。指摘のとおり、中盤とサビの一部のコードだけは、一向に上手くならなかった。


「まぁセーハは難しいよね。焦らなくていいよ、まだ指も短いから力も入らないでしょ?」


 悔しいが、雨音の言うとおり僕の指の長さと力では難しいコードのようだった。


「梅雨が明ける前になんとかならないかな?」
「うーん、厳しいね。無理無理。一ヶ月もやればできるかもしれないけど」


 今は七月も中頃に入ろうかという時期。晴れの日は確実に多くなっていている。
 天気予報は、明日からずっと晴れだと言っていた。それまでに最初のサビまで通して弾けるようになりたかったが、結局克服することはできそうになかった。


「もう一度、僕にお手本を見せてよ」
「仕方ないな、一番だけだよ?」


 せめてお手本となる演奏を記憶に焼き付けておこうと、雨音に演奏をせがむ。お願いされた雨音は、快く自分のギターを構えて立つ。
 すらりと背の高いその姿は、それだけで様になっていた。雨に濡れない艶のある髪をまとめて、音を爪弾き始める。雨粒の音とアコギを伴奏にして、静かにあの歌を歌い始める。



雨は遠く 街を濡らす
声は細く 何を漏らす

雲は厚く 嘘もつけず
手は届かず 日も仰げず


叫んだ君の枯れた声を聴いて
凪いだ雲の隙間から
木漏れ日を真似るようにして
光が差しこむ


こぼれた空の海の青を思い出して
雲がそれを遮ったとしても
その向こうに目もくらむ世界があるんだ
臆病な君に寄り添う 雨明けの歌



 儚げで消えてしまいそうで、それなのにどこまでも綺麗で逞しい歌声だった。何度となく聞いた歌なのに、僕は思わず拍手をしてしまう。


「すごい――。僕も、雨音みたいにもっと上手になりたい。もっと雨音にギターを教わりたい。……梅雨が終わらなければいいのに」


 だがそれは許されない。雨が上がり梅雨が終われば、雨音にはしばらく会えなくなる。これは仕方のないことだった。


「ありがと。でも梅雨が明けなかったら、全国の洗濯物を干している主婦さん達が困っちゃうよ」 


 苦笑しながら、雨音はギターケースの元へ向かう。


「それに大丈夫。実はね、こんなものを用意してました」


 雨音は中からノートを出し、僕に渡す。見てみるとそれは五線譜ノートで、中にはびっしりと音符が書かれたいた。
 ただ教科書に載っているものとは違い、コードも一緒に載っている。そしてノートの間には、コードの押さえ方がかかれた表も入っていた。


「これって、あの歌の楽譜?」
「そ。がんばってこの間書いたの。メロディとコードが書いてあるから、私がいなくなったらこれで練習してね」


 コードはともかく、メロディは何に使うんだろう。ずっと雨音が歌っているのを聞いていたから少しは覚えているが、使い道はないと思う。


「そんなの、弾き語りをするために決まってるじゃん。コードだけだとつまらないでしょ?」
「え、やだよ。僕歌上手くないし。コードだけでいい」
「大志は本当に食わず嫌いだね」


 仕方ないなぁと、呆れたように雨音は笑う。今日の雨も中途半端で元気がなく、雲にはところどころ切れ目が入っている。顔をのぞかせた青空に目を向けながら、雨音は言った。


「もう梅雨明けだね」
「――うん。天気予報はずっとこれから晴れだって」


 それを言ってしまうと、もう一年は会えないということがようやく現実のことに思えてきた。


「もう、そんな深刻そうな顔しないでよ。来年になったら会えるから」
「そんな顔してない」
「してるよ。大丈夫、私の代わりにノラさんがついていてくれるから」


 そうして彼女はノラさんを抱える。名残惜しそうに背中を撫でるが、かなり嫌がられている。威嚇する声音で脅し始めたので、雨音は引っ掻かれる前にノラさんを解放した。


「ギター、がんばってね」
「うん、来年にはもっと上手くなったとこ、雨音に見せるから」
「楽しみにしてる。でも学校の勉強サボったりしゃちゃダメだよ?」


 もう雨は完全に止んでいる。雨音が立ち上がると、すでに向こう側の景色が透けて見え始めていた。僕は何か言わなくちゃと思ったが、なにを言えばいいか思いつかない。


「――約束だよ? 今度は、君の歌を聞かせてね」
「約束する。雨音もずっと、僕に教えてくれるよね?」
「うん。約束する」


 雨音が頷いた時に雲の切れ間から強い日差しが差して、僕は思わず目をつむってしまう。




 目を開けた時には、雨音の姿はどこにもなかった。




 足元にいたノラさんが不思議そうに辺りを見渡していたが、探すのを諦めたのか、どこかへ行ってしまう。
 公園に残ったのは、背の高い木と、その木の下で一人ギターを抱える僕と、誇らしげに隅で咲いている大きな花だけになった。


 天気予報のとおり、今日が最後の雨の日だった。梅雨は明けてしまい、僕は雨音に会えなくなった。


***