梅雨葵 5


 それをきっかけにして、半ば無理やりに雨音に弟子入りさせられ、練習することになった。幸いアコギは父も持っていたので、こっそり公園に持ち出す。
 バレないか不安だったが、父のアコギは埃をかぶるほどずっと使っていないもののようだったので、心配はなさそうだ。


 雨に濡れないように、大きな木の下でアコギをケースから出し雨音に見せる。お、持ってきたねと、状態を確認するようにギターの具合を見ている。


「……これ、お父さんから借りたの?」
「うん、使ってないからいいってさ」


 雨音はそんな小さな嘘を見透かしたように、意地悪な笑顔を浮かべて僕に続けて聞いた。


「うそつき。勝手に借りてきたでしょ」
「なんで分かったの?」
「これ、すっごい高いアコギだよ。子供になんて怖くて持たせられないよ」


 それを聞いて青ざめた僕の顔を見たのか、なだめるように雨音は言った。


「でも埃かぶるほど使ってないっていうのもギターにとっては可哀想だからね。そう思って弾いてあげよう?」


 それにしても初心者がオーディトリアムの28なんて超贅沢だねと、一言ぼやいてから雨音の指導が始まった。
 まずはコードから、ということで先日の最初の二つのコードを弾き始める。二本の指を移動させるだけなのに、ぎこちない動きにしかならず、二つのコードはなかなか綺麗に繋がらない。
 しかも、まだ慣れていないせいなのか、すぐに指先が赤くなり痛くなってしまった。


 仕方なくギターをケースにしまい二人で休憩していると、また何処からともなくノラさんがやってきて父のギターのケースの上に乗っかった。
 乗っちゃダメと雨音が抱き抱えると、ノラさんは珍しく彼女の腕の中でおとなしくしていた。


「最初は、痛くなって大変なんだよ。ちょっとずつ指の皮が厚くなってくから、それまで我慢だね」


 そうアドバイスをくれた雨音の指に触れると、指先だけが少し硬いような、不思議な質感になっていた。


「どれくらい我慢すればいいの? 二日? 三日?」
「せっかちだなぁ。大志はまだ子供なんだから、ゆっくりやればいいじゃないか」


 また子供扱いだ。前から思っていた腑に落ちないところを僕は雨音にぶつける。


「また子供扱いするけど雨音だって子供じゃん。高校生か大学生じゃないの?」
「まぁ、私も当時は大学生に成り立てだったから子供かな。死んだのはもう結構前だけど。やっぱ幽霊は年を取らないんだね」


 しまった、と思った。あまりに雨音と自然に話しすぎて、彼女がすでに亡くなっているのを忘れて聞いてしまった。慌てて僕は話題を変えようとする。


「なんで雨音はアコギを弾き始めたの?」
「うーん。よく覚えてないな。あんまりちゃんとした理由はないかも」


 意外だと思った。大抵、親がやっているのを見てとか、憧れのミュージシャンがいてとか、それらしい理由がみんなあるのだと思っていた。
 あるいは僕のように、習い事か何かで強制的に弾かされたとか。


「ただね、私は歌いたかったんだよ。そしたら、伴奏があったほうがいいじゃない? なら弾き語りでしょ、みたいな」


 雨音の目は、どこか遠くを見るような風になっていた。誰に話すわけでもないように、ノラさんの背中を撫でながら彼女は思い出を語る。


「私の取り柄は歌うことぐらいしかなかったから、歌もアコギもすごい練習したんだよね。中学も高校も文化祭で歌ったし、よく大きな駅の前で弾き語りもした。大学に入ってからオーディションに出て、やっとプロへの切符を掴みかけた。……そんな頃、いつもみたいに駅前で弾き語りをしようとした時に、大きな事故に巻き込まれたの」


 即死だったらしい。最後に覚えているのは、全身を襲った一瞬の鋭い激痛だけ。
 後は意識が暗転し、気付いたらギターと一緒に雨の降るこの公園にいたとのことだった。


「本当は、世界中の人達に、私の歌を聴いて欲しかった。……この子には、申し訳ないことをしてるね」


 ノラさんの背中から愛用のアコギへ手を移し、優しく撫でている。
 その身一つに一本のギターを持って、世界中を旅するのが雨音の夢だった。小学生の僕でもわかる、雲をつかむような、無謀な話だ。
 それを大真面目に話す彼女に、僕は意地の悪いことを聞いてしまう。


「……雨音は、そうなるって分かっていても、ギターを弾いていた?」
「もちろん」
「がんばっても、死んじゃうのに?」
「うん。だって――」


 雨音は花の描かれた自分のギターを見つめながら言う。


「好き、だからね。結果が欲しいんじゃなくて、成果が欲しいんじゃなくて、ただ好きだからやる。その積み重ねでたどり着ける場所があるなら、ちょっとそこまで行ってみよう、って感じ」


  “ちょっとそこまで” が世界になるのが、僕のような凡人には理解できない。僕と雨音の間には、埋められない隔たりがあるのを感じた。


「まぁ、好きなことをやるだけのことを努力とは呼ばないかもね」


 そう後付して雨音の語りは終わる。いつしか指の痛みは引いていた。


「さ、指はもう大丈夫でしょ? 練習練習!」
「えーもうちょっと休もうよ」
「ダメ。日が暮れる前にもう100回コードの切り替え!」


 雨音はノラさんを地面に下ろして指導を再開し、僕は厳しい練習をまた続けることになった。


***