ラフノート 第一章

刺巻奏太はいまだ "F" ができない


 鳴り止まないセミの声が店内にまで滲み出し、落ち着いたBGMを押しのけて耳に障る。日が沈みかけてもなお、いまだその暑さが健在であることがよくわかった。


 雫の浮いたガラスコップの中で、氷が音を立てて転がるのを合図にするように、正面の席に座っている男子高校生が口を開いた。


「奏太……そろそろ教えてくれないか」


 爽やかなその外見と裏腹に、その表情と声音は重く深刻そうだ。間を開けぬうちに、向かいの席からも言葉が飛んでくる。


「奏太、どうなの? 例のあれは」


 二人の視線が俺に集まる。発言を待っているらしい。


「聞いてくれ、二人とも。俺――」


 少しの間を持って継いだ言葉の先を、両人は少し体を乗り出して待ち構えている。














「俺―― "F" がまだできないんだ」


「アホかこの野郎。何ヶ月エレキギター弾いてんだよ?」


 鋭いツッコミと罵声が飛ぶ。お調子者の綾人からだった。男子高校生にしてはいくらか長さのある髪と、細身でタッパのある背格好だけを見るとバスケ部のようなスポーツマンを自然に思わせる。
 が、その髪は僅かに青みがかった深い深い紺、というよりは赤みだけを抜いた黒で、いつもかけている青ぶちの眼鏡と相まって、黙っていれば知的で穏やかな青年に見えるかもしれない。


「三ヶ月半だよ」
「三ヶ月半て、ドラマがワンクール終わるレベルだぜ? 小学生だって、もっと早く覚えられるっつーの」


 ほら見ろよこの動画、と、小学生ぐらいの子供がアコギを華麗に弾く動画を顔面に突き付けてくる。


 先ほど黙っていればと前置きしたのは、こいつは基本的に黙らないからだ。
 怒られれば軽口、反論すれば屁理屈、茶化すときは皮肉をかます言辞のせいでおおよそ知的クールキャラの対局に陣取っていた。
 そんな嫌味な奴だが、小学中学高校とずっとクラスが同じで、いわゆる腐れ縁だった。


 俺こと刺巻奏太はこいつに誘われて、高校生活で大きなウェイトを占めであろう部活動として軽音部を選択した。
 カラオケで俺が歌うのを聞いたのが、勧誘の決め手らしい。
 特にカラオケの得点が高いわけではないが、独特で特徴のある声がボーカルに適任とのことで、最初は興味ないとあしらっていたが、バンド組もうぜ、と毎日しつこく勧誘され根負けした。
 しかし、元々中学の頃からドラムを叩いていた綾人と違い、俺は高校で初めてエレキギターを始めたわけで。


「ギターは "F" でつまづく、って聞いてたけどここまで難しいとは思わなかった」


 Fというのは、6本ある全てのギターの弦を同時に指で押さえるコードのことで、ギターを始めた人間に最初に立ちはだかる壁のことである。
 ギターを弾くには必須なのだが、未だ、俺は習得していない。


 そんな状態ながらも、綾人の提案で、喫茶店にて文化祭ライブの選曲ミーティングを開催することになった。
 のだが、そもそもまともに基本のコードも押さえられないのでは選曲どころではなく、俺はため息をついた。


「奏太、ギター向いてないんじゃない? パワーコードが許されるのは、エレキを初めて一ヶ月目までだよ?」


 俺のため息に被せるように隣から追い打ちをかけてきたのは、同じく軽音部に所属する寒河江夏希だった。
 同じ学校に通っている以上、こいつも女子高生であることは明白なのだが、小さな背丈と幼い顔立ちのせいで、入学したてぐらいの中学生に見える。
 背中の半分を隠すように長く伸びた真っ直ぐな黒髪と小柄で人形のような容姿は、黙っていれば良家の令嬢と錯覚するかもしれない。
 だが、綾人同様に外見と中身が若干食い違っている。端的に言うと黒髪ロングストレートの清楚キャラなんてものは幻想ということだ。


「じゃ、夏希は何ヶ月でできたんだよ?」
「十日。しかもアコギで」
「……見かけによらず握力あるんだな」
「失礼ね。Fを弾くのに握力なんて要りません」


 中学から一緒だが、お嬢様のような特有の上品さは言動から一度も感じたことはない。例えば今のように、人の傷に塩を塗り、七転八倒の人間に蹴り倒してくる。
 俺にそういう高尚な趣味はないので何ら嬉しくない。


 また、俺が勝手に思う模範的お嬢様のイメージとは逆で、活発に動き、誰とでも直ぐにうち解けられる社交的な性格だ。
 俺や綾人のように一定以内の距離感に入ったものには容赦がないが、そうでない人間に対しては外面がいい。
 そのため友達は多く、交友関係は広い。容姿と性格のギャップが人を惹きつけるのだろうか。


「第一、レスポールはストラトよりFを押さえやすいはずなんだよ? なんで、ストラトの私が出来て、レスポールの奏太ができないの?」


 そのギャップは使用する楽器にもあり、イメージに反して担当は俺と同じエレキギターだ。綾人いわく実はキーボードも弾けるらしいが、今は専らエレキしか弾くつもりはないとのこと。
 その綾人と夏希は中学以前に知り合う機会があったため旧知の仲で、楽器経験者としての腕を買われて入部したらしい。


「とにかく、今はパワーコードでもいいだろ? 奏もパワーコードを弾いてるうちにFはできるようになるって言ってたし」


 俺は萎縮しながら弁解する。
 パワーコードというのは、エレキギター初心者が初めに習う簡易的なコードのことで、簡単に押さえられる割にロック系の曲ならそこそこ応用が効くという便利なコードだ。


「なんでその奏が先生なのに、いまだに出来ないんだか。これじゃいつまでたっても曲決められないじゃん。パワーコードだけの曲にする?」


 奏という人物は、俺にエレキギターを教えてくれている軽音部のメンバーなのだが、用事があるということで先に帰っていて、今、喫茶店にはいない。
 今しがた呆れていた夏希から最初は教わっていたが、なかなか上手くならないので奏に教わったところメキメキと上達しているのを感じる。
 が、それでもFが押さえられない。こればっかりはいかにコツを早く掴むのかによるそうだ。


「つか、お前ギター音楽準備室に置いてきてんだろ。持ち帰って練習しないといつまでもパワーコードだぞ?」
「家で弾くとうるさいだろ? あとギター、ていうかレスポールは重くて持ち帰るのが辛いんだ。まだ初めて三ヶ月半だ、緩く行かせてくれよ」


 あれを担いで自転車を漕ぐと、家に着く頃には肩が石のように固く凝ってしまって適わない。しかしそんな泣き言には、煽りの文句が返ってくる。


「綾人の力強いドラムと奏の安定したベースの上で、ぎこちないパワーコードを弾くだけの奏太くん――」
「恵まれたリズム隊から、クソみたいなワンパターンのリフを刻むだけの奏太くん――」
「分かった、分かったから。今日からレスポールを持ち帰って練習するからもう勘弁してくれ」


 いつまでもこう交互に責め苦を言われてはいられない。実際、足を引っ張っているのは確実に俺だった。早く基本をマスターしなくては。


 時間はいつの間にか17時半を回り、影も薄まっていくらか涼しそうだ。置いてきたレスポールを学校から回収するため、選曲会議をする二人を残して先に会計を済まし、喫茶店を後にする。


 サボんなよー明日期待してるからなーと、釘を刺すような腐れ縁からの別れの挨拶を背中に受けながら学校へ向かった。


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