すくう金魚 7


「痛……!」


 体中の痛みで、仰向けに目を覚ます。特に頭痛はひどく、くらくらする。雨は止んでいるが、あたりは真っ暗になっており、すでに日が沈んでいる様子だった。
 月明かりのおかげでかろうじて視界は確保されているが、月が明るいということは、しばらく気を失っていたようだ。服は泥だらけになり、私は沢のような場所に横たわっていた。


「土砂、崩れ……?」


 遥か上に、アスファルトの道が見える。轟音と、一瞬の浮遊感のうちに気絶したので、足元から崩れたのだと推測できる。
 徐々に意識がはっきりしてきて、周りの状況が飲み込めてくる。アルトサックスは背負ったままで、背中でクッションの役目を果たしてくれていたらしい。中身は、いや、今は楽器のことはいい。


「そうだ、ハナは!?」


 ハナの金魚袋が手元に見当たらない。巻き込まれたのかと名前を叫ぶが、当然返事はない。立ち上がって探そうとしたとき、右足に激痛が走り、地面に突っ伏してしまう。
 見ると足首が晴れ上がっている。骨を折ったわけではないようだが、ひどい捻挫をしているようで、これでは歩くのは難しそうだ。座り込んで顔を動かせる範囲で見渡すと、金魚袋は案外近くに転がっていた。


「うそ……!」


 その金魚袋は枝か何かで引き裂かれ、中の水は全て流失していた。中にハナはいない。でも、水を失って死んでしまっているであろうことは容易に想像できた。
 たかが二週間ちょっとをともに過ごしたとは言え、相手はただの金魚。だというのに、私は大声でハナの名前を叫んで泣いてしまった。


 パシャ――。


 まるで返事をするように、水しぶきの音が聞こえた。後ろの方、崩れた斜面側を確認すると、持ってきていたもうひとつの金魚袋の中に、いつもの花火柄がいた。


「ハナ!!」


 酸素不足対策で持ってきていたもうひとつの金魚袋が、思わぬ形で役に立った。袋の中で、ハナは元気そうに泳いでいる。


「もう、心配させないでよ」


 こんな時でも、いや、こんな時だからこそ。例え傍らに居るのが金魚であっても、一人じゃなくてよかったと思う。
 ハナの無事を確認したところで、土砂崩れの規模を確認した。小規模な崩落だったようで、私は安心する。


(いや、そっちのほうがダメだ)


 小規模、ということは、当事者以外で災害が起こっていることに気づいている人間がいないという恐れがある。まして、この山は普段誰も通らないほど人気がない。もしも連絡手段がないなら、誰かが気がつくまでこのままという可能性だってある。


「携帯、えっと、ポケットだ」


 山ではあるが圏外ではないはず。祈る気持ちでポケットの携帯電話を取り出したが、無情にも液晶画面は割れており、電源は付かなくなっていた。


「……そんな。これじゃ、連絡できない」


 他に連絡に使えそうなものはない。こんな夜更けに誰かが通るはずもないので、ここで夜を明かすという事になる。まだ残暑の季節とはいえ、降雨の後、そしてさすがに夜は気温が低い。
 無事に朝を迎えられるかは、私の体力次第か。だが、まだひとりじゃないということが救いになっていた。ハナがとなりにいるだけで――。


「あれ? ハナ?」


 いない。ハナがいない。金魚袋の中には金魚藻だけが浮いている。うそ、どうして。狼狽してハナを探す私は、近くの沢の中で、白い何かが動いているのがわかった。それはそのまま、下流の方へすぐに消えていってしまった。


 冗談じゃない。冗談じゃないよハナ。今まであんなに世話してやったのに。水槽を五つも買ってやったじゃないか。それなのに。


「……あんまりだよ。私を一人にするなんて……」


***




 どれくらい経ったろう。時計もないので時間の経過が確認できない。人間は、時間のわからない部屋にしばらく閉じ込められると精神に異常をきたすと聞いたことがあるが、今まさに実体験している。孤独と寒さで、頭がおかしくなりそうだった。


 力の限りをもって斜面を登ってみようとしたが、ボロボロと崩れてしまい登ることは叶わなかった。助けを大声で呼んでみたものの、静寂が代わりに返事をするだけだった。
 いつの間にか月も雲に隠れてしまい、あたりは一切の光源のない闇に包まれている。私はアルトサックスのソフトケースを抱きしめながら、何もできず、ただ怯えていた。


「……私、死ぬのかな」


 つい、つぶやいてしまった。言葉にすると、いよいよ現実味を帯びてきてしまう。仕方ないか、親ともまともに話をしない、ダメな娘なのだ。報いを受けて、当然なのかもしれない。


 目を瞑って、夜の闇に体を預けようとする。覚ました時には、どうなっているだろう。死んだら、どうなるのだろう。どうにもならないだろう。
 私は死後の世界なんて信じてないし、そこが本当にあるにしても、まともに信仰していなかった私が導かれることもないだろう。きっとただ、微生物たちの手によって分解され自然に還るだけだ。


(……お父さんに、謝りたかったな)


 一言。たった一言謝っていれば。ほんの少し歩み寄ろうとすれば。ただそれだけ、私の日常は、きっと、多分。もう少しだけ、いいものだったかもしれない。
 ろ過器もエアポンプもない、徐々に濁っていく水槽の中に閉じこもり、私は出口を失ったのだ。ハナがそうするように、いつだって飛び越えることはできたのに、何を意固地になっていたのだろう。
 私は、本当に、馬鹿だった。





「……お父さん……」




 口のはしからこぼれた言葉。いつも返事をしなかった私には、誰も返事をしない。






 そう諦めていたのに、思わぬ声が返ってきた。


「陽奏ー!!!」


 強い光で照らされる。信じられなかった。夢かと思った。


「陽奏、大丈夫か!? 待ってろ、今降りる!!」
「……お父さん……なんで……」


 光源が一旦離れ、少し遠くの斜面を下ってくるのがわかった。


***