すくう金魚 6


 翌日の朝。昨日までと打って変わって雨は止み、晴れ晴れとした青い空が広がっていた。


「おはようハナ。ずっと、新聞読んでいたの?」


 心做しか、ハナはいつもより元気がない。それでもエサのテトラフィンを見せびらかすと喜んで水槽を舞う。やはり食事が一番好きらしい。
 さて、晴れているし、今日は山の上に練習に行こうか。アルトサックスのハードケースに手をかけると、後ろで水しぶきが上がった。振り返ると、ハナがぐるぐるとせわしなく回っている。


「あー、散歩?」


 金魚のくせに、約束をちゃんと覚えているようだった。仕方ない。金魚袋に汲み置きの水を酸素を詰めて、再び即席住居を二つ作る。口を縛った瞬間にもうハナは現れ、準備万端という具合だった。こういうところは犬のようだが、新聞も読むし、人の言葉を理解するし、とにかく頭のいいやつだ。


 アルトサックスをソフトケースに移し替えて背負い、右手に金魚袋を携えて玄関に向かう。自転車は……、使わないほうがいいだろうか。ハナが酔ってしまうかもしれない。


 おい。どこに行くんだ?


 何かはまた言葉を。今日は休日出社のようで、背広を羽織っていた。私は返事はせずに、靴を履く。


 前も言ったが、進路。どうするんだ。進路希望調査票をもらっていないと、先生から連絡を頂いた

 ……そのうち決める

 そのうちっていつだ。勉強もしないで、いつまでもそんなものを吹いて――


 最後の言葉を聞き終える前に、叩きつけるように玄関の扉を閉めた。そのまま最後まで聞いたら、楽器で頭をぶん殴っていたかもしれない。


「あ、ごめん、ハナ」


 何事かと金魚袋の中からハナが見上げていた。表情は変わっていないが、心なしか心配しているようにも見えた。人の心までわかるのだろうか。そんなはずあるか。同じ人間同士ですら、こんなにも近くにいる人間の考えていることがわからないのだから。


***




 山の上の公園。あいも変わらず誰もいないこの場所で、今日も私はアルトサックスを吹いていた。自由に、音符に縛られず、好き勝手に。


(わかっている。わかりきっている。もう、進路を選ばなければならない)


 ここ半月で、二回ほど聞かれた。先生を合わせるともっと。顧問が担任だと厄介だ。
 自慢ではないが、私は成績には困っていない。進もうと思えば、多分、どんな大学にだって進める。だが父子家庭であることを考慮すれば、いくら奨学金を得られるからと言ってもまるで足りないだろうから、私立は選択肢から外れる。


(……まただ。また逃げている)


 問題の本質はそこではない。疑問符は、選択肢は、そもそも二つしかないとふた月以上も前に検討が終わっているじゃないか。あとは、選ぶか、選ばないかという単純な問題のはずなのに、なぜ決められないのだろう。


 パシャ――。


 考え事のために吹くのを止めていると、金魚袋から文句が聞こえてきた。いつもは観客がいないのだが、今日は違うようだ。


「何? もっと吹けって?」


 金魚は頷く。


「ハナ、言葉や文字だけでなく、音楽もわかるの?」


 当然であるように頷く。ははは。ここまでされるともう驚かない。魚の皮をかぶった小人かなんかじゃないのかこいつはせっかくお客さんがいるのだから、今日は考え事をしないで吹き続けよう。


 リクエストにお答えして、マウスピースに唇を添える。何を吹こう。すぐに思いついたのは、ジブリのあれだ。映画ではトランペットだったが、アルトサックスでやっても映えるだろう。


 息を吸い込み、リードを震わせる。指の動きに合わせタンポがカタカタと動いては、メロディが次々変化していく。


「……どう?」


 ハナはぐるぐる回ったり、二つの金魚袋を行ったり来たりしている。鳩を呼び寄せることはできなかったが、金魚の心をつかむことはできたようだ。


 喜ぶハナを観察して面白がっていると、頬に何かが当たった。空を仰ぐと、いつの間にか日差しは消え失せ、雨雲が我が物顔で跋扈している。鳩どころか、雨を呼び寄せてしまったようだ。ポツポツと、アスファルトに点が出来始める。


「やば。傘持ってきてない」


 今日は天気予報では一日中晴れだったはずだったので、雨具を持ってきていない。しかも、ハナのことを考えて自転車ではなく徒歩で山まできたのですぐには帰れない。どうやらずぶ濡れになりながら帰らなければならないようだ。


「ごめんねハナ。アンコールはまた今度」


 ハナは何か言いたそうにくるっと一周するが金魚の言葉はわからない。私達の会話は一方通行だ。
 アルトサックスを手早く分解してソフトケースにしまい、金魚袋を手に早足で山を降り始める。雨足はどんどん強くなってきて、いよいよまずい状況になってきた。


「まずいよこれ。サックス大丈夫かな」


 一応金属で出来てるとは言え、水に強いわけではない。そんな心配をしながら山の坂道を飛ばして下っていると、上から轟音が降ってきた。


(なに、雷? いや――)


 雷ではない。地面が揺れている。地震かと思って足を止めた時に、私の足元が "なくなった" 。


***