すくう金魚 4


 どうした。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして?


 いつの間にか帰ってきたらしい何かの声を無視して、シンクの水槽をまじまじと凝視する。ハナは確かにそこで泳いでいる。件の花火と、大きな尾びれをはためかせながら。


 見ていても仕方ない。浴室へ急ぎ、寝汗と冷や汗がまとわりついた体にシャワーを注ぐ。髪を滴り落ちる水音を聞きながら、私は推理する。
 もしかして、何かがハナをシンクの水槽に移したのか? いや、そんなはずはない。何かが私の部屋に現れることはない。ここ三年ほどの経験則からだ。


 では誰が。あと該当するのは他ならぬこの私だ。昼寝の前の行動を思い出す。家に戻ってきて、部屋でおにぎりを食べて、ハナに餌をやり、シンクの水槽をセットして、また部屋に戻って……。そして今に至る。間違いなく、自分で移動させた覚えはない。


 うーん。推理小説は苦手である。ここで考えられるのは、未知の第三者による犯行。侵入者が、私の部屋に入りハナを……そんなことして何になる。妖怪金魚移しの仕業か。そんなローカル妖怪がいるなら教えて欲しい。


 一人悶々とうなりながら湯船に浸かる。水風呂だ。夏の暑さを吸収して程よい水温になっている。頭を冷やして考え直すにはちょうど良い。
 さて、推理を見直そうと顎に手を当てて身を瞑ろうとした瞬間、視界の端に何かが映った。


(――!!!)


 湯船の中を、何かが漂っている。家で勝手につぶやいている何かではなく、理解しがたい不明のものという意味の方の、何かが泳いでいる。
 白い。水面が波立ってよく見えないが、若干赤い部分もあるようだ。更に目を凝らそうとしたとき、何かはいつの間にか消えていた。
 消えてはいたが、あれはどう見ても、あの動きはどう考えても、完全に魚のそれであった。


 私は慌てて風呂から上がり、タオルを一枚巻いて、キッチンへ飛び出る。シンクの水槽に、ハナはいない。次に、自分の部屋を目指して駆け上がる。扉を開けて、机の上の小さな水槽を見る。


「……手品? 超常現象?」


 私の部屋の、さっきまでもぬけの殻だったはずの水槽に、今度はハナがいた。ハナは私を見つけると二周ほど円をかいて周り、自慢の花火を見せびらかすようにして漂った。


***




 シンクで準備をしていた金魚鉢を、自室に持ってくる。これでこの部屋には二つの水槽があるということになる。今、ハナは四角い旧水槽にいた。


「……まさかとは思うけど」


 ハナの目の前で、餌のテトラフィンフレークタイプを振ると喜んで尾びれを動かしている。まだ食べるつもりかこいつは。でもちょうどいい。私はハナのいない方の金魚鉢に、餌をつまんで落とす。


 次の瞬間、ハナは金魚鉢に出現し、餌に食いついた。当然、というか不自然、元いた四角い水槽の中には誰もいなくなっている。


「……どういうこと? 瞬間移動?」


 今度は元の四角水槽に餌を落とす。すると金魚鉢からはハナの姿が消え、四角水槽の水面にひょこっと顔を出した。ご満悦の表情で――、無表情なので喜んでいるのかは分からないけれど、とにかくすごい食い付きでハナはテトラフィンを貪っていた。


 拝啓、アインシュタイン先生。物質は光速を超えることはできないらしいですが、どうも金魚は超えられるらしいです。
 少し前にどこかの研究所でニュートリノが光速を超えたとかって実験結果が出て、調べたら間違っていてやっぱりE=mc^2は間違ってないとなりましたが、一匹の金魚が覆しちゃいました。もう世の中何を研究すればいいのか分からないですね。かしこ。


「おい、相対性理論に謝れ」


 驚き戸惑う私のことなど意にも介さず、物理法則の捻じ曲げた一匹の金魚は無邪気にエサをねだっていた。
 しかしこいつ、塩素は大丈夫なのだろうか。まだカルキ抜きが完全に終わってないと思うのだけど。心配した甲斐がないように、ハナは元気に二つの水槽を優雅に泳いでいる。


(ハハハ。水槽と物理法則を飛び越えた魚に、今更化学的な話をするだけ滑稽か)


 時計を見る。まだ午後六時前。ホームセンターは空いている。濡れた髪をドライヤーで乾かして、余所に行ける服を着て、私はもう一度玄関へ向かう。


 今日も出かけるのか? 飯はどうする


 また何かが声を発している。夢に出てきた何かが。


 食べる
 そうか


 珍しく声に返事をして、私は玄関の扉を開けて外へ出る。


***