すくう金魚 3


 先月買っていたベタが寿命を迎えて星になった。寂しげなただずまいで、透明なガラスしか写っていなかった水槽の中に新たな住人が登場する。


「君、名前は "ハナ" ね。花火柄だから "ハナ" 」


 メスっぽい名前だが、オスだったらどうしよう。家裁に訴えられたら改名を検討します。
 ハナは金魚すくいで泳いでいた金魚にしては少々成長が早いのか大きな体をしている。水の上からではよくわからなかったが、白い体の左半身に、縦の赤い線、線の切れたところの周りに赤と若干の黒が点在し、花火あるいは彼岸花のように広がっている。ベタに負けない美しい金魚だ。


 ひとまず、元気そうである。金魚袋をそのまま浮かべて水合わせし、温度によく慣らしてから新居に放った。今日はこれで作業終了である。ただベタを買っていた水槽は小さく、ほどよく成長する金魚には不満であろう。
 明日の帰り道、お金を下ろしてから、ホームセンターで新しい水槽とカルキ抜き剤と、その他諸々を買ってこよう。そう決めて、私は一階に降りてソファに寝そべる。


 おい


 私しかいないはずの家で、何かの声が聞こえた。ハナか? いやそんなはずはない。金魚が喋るはずがない。
 そもそも私は、ハナの住処である水槽が置いてある私の部屋ではなく、一人リビングでソファの上でテレビを見ている。


 おい。ごはんはどうした?……食べてきたのか?


 何かは私に話しかけてきているようだった。気味が悪い。一人しかいないこの空間に向かって、私は独り言を呟いた。


 考えればわかんない? 今日、私がどこに行ったのかも知らないんでしょ


 何かは肩を落として、キッチンに消えていったようだ。でも居心地が悪い。部屋に戻ろう。
 やはりバイトして部屋にテレビを買おうか。小さいテレビならひと月ふた月で買えないだろうか。部屋に戻る前、何かはもう一度声を発した。


 ――進路、どうするんだ? 大学か? 国立か、私立か? それとも就職か? 県外か? 県内か?


 たくさんの疑問符が空中を漂っていた。うっとおしく払い除けて、階段を登った。
 大学――? まして就職? 何かは、私のことを何も知らない。私は、何かのことなんて知りたくもない。
 疑問符が、死骸にたかるハエのようにたくさん湧いていることに、私は強い憤りを覚えた。腹わたが煮えた。


 荒れる心の調子を整えるため、部屋でハナを眺める。私との攻防の末に少し疲れているようだった。
 魚を見ると落ち着く。済み通った水を優雅に泳ぐ魚のように、頭をからにして生きたかった。私はバカになりたかった。魚に失礼だとは思ったが、許してほしい。


 ベッドに横たわりながら、左手で母の遺してくれたハードケースに触れる。金具は冷たかった。


 私の疑問符は、選択肢は二つだけ。手放すか、手放さないか。


***




 翌日。何かは家からいなくなっていた。休日だろうが構わず仕事をやっているのだろう。そんなことは気にもとめず、私は日課の準備を開始する。天気も上々。雲ひとつない快晴だ。


「じゃーね、ハナ。ベタの水槽は小さいでしょ? 帰りにちゃんとした水槽買ってくるから」


 そう声を掛けるとご自慢の花火柄を揺らし、さんざん苦しめてくれた尾びれをくるんと翻す。うむ。なかなかに綺麗な金魚だ。野口さんを生贄に捧げた価値はあった。はず。


 ベッドの脇に安置されていたハードケースの中身はすでに、背負えるタイプのソフトケースに移動している。
 そのソフトケースを背中に抱えて、私は玄関を飛び出す。日差しは眩しい。まだ午前中のため優しい暑さだが、帰る頃には灼熱地獄になっているかもしれない。


(さて、行こうか)


 玄関脇に駐めてある、乗り慣れた自転車に勢いよくまたがって、大地を蹴って走り出す。目的地はすぐ近所の小さな山。お気に入りの練習場所。


 小さい山とは言え、それなりの坂道になっている。だが大丈夫。そこそこ大枚を叩いて買ったこのクロスバイクは、私の体重の四分の一の重さしかない。十キロを少し超えるだけだ。
 私の貧弱な足にも関わらず、軽々とこの体と背中の相棒を運んでくれる。頼もしいが、盗まれそうなので学校には乗っていけない。それでも日課の練習の時は本当に頼りになる。多分、クラスの男子よりも頼りになる。


 空を切って、息を切らして、汗を流して、風を退けて、私はいつもの場所へたどり着く。小さな山の上。そこにある公園。公園といっても、ベンチと、トイレと、申し訳程度のブランコが設けられているだけで、その絶妙な寂れ具合と微妙に遠い位置関係がいい感じに人を寄せ付けず、人知れない穴場になっている。というか、休みの日でもいつも私しかいない。近くに沢もあり、水浴びもできるのだがやってる人は誰もいない。


 ベンチに腰掛け、呼吸を整えながらソフトケースから相棒を取り出す。
 銀色のアルトサックス。母が遺した私との絆。何代目かわからないリードをリガチャーでマッピに固定し、ネックに取り付ける。落とさないようにそのネックを本体に取り付けネジを締めて、首から下げたストラップとつなぎ合わせれば完成である。


 サックス吹きはこの組立工程に絶対に一度は、自分がスナイパーになって武器の組立をしてるように思ったことがあるはずだ。いや、ないはずがない。いたら教えて欲しい。


 チューナーを使ってチューニングを終える。日差しに当たるとすぐに狂うし、部品が痛むので日陰に潜む。幸い、この公園には大きな木陰がいっぱいなので心配いらない。


 誰もいない山の上の公園。私は、よくわからない心の中の叫び声をアルトサックスの代弁させる。リードを下唇に当て、大きく吸い込んで、真鍮の管に息を張り巡らせる。


 公園中に、程よく倍音を含んだ、暖かい音が響く。


 アドリブソロ。伴奏もない完全なソロ。運指練習もロングトーンもしない。今日はめんどくさい。ただひたすら、頭の中の五線譜に浮かんだ音符を追いかけて、自由に歌った。


 多分、相棒は怒っている。そんな乱暴に吹くんじゃないと。八つ当たりだが、許せ。
 そう、これは八つ当たりだ。素直に叫べない私は、こうしていつもストレスを解消していた。みんながおしゃべりや、カラオケで解消しているのを、全部アルトサックスにぶつけてきた。


 観客のいない演奏会は、今日も延々と続く。


***




 散々吹きまくって指が疲れた頃には、お昼頃をとっくに過ぎていた。さすがにお腹も空いたし、ハナに新しい水槽を買ってやらねば。
 相棒をケースに仕舞い込み、自転車に飛び乗って、山の上から一気に駆ける。結構スピードが出る坂道を、ブレーキで絞りながら降りくだる。精一杯吹いて浮かんだ汗が、後方に吹き飛んでいく。


 街に戻った私はお金を下ろして、ホームセンターで目当てのモノを買ってから家路に着いた。割れないように大事に、クロスバイクに後付けしたカゴの中に固定し、カラカラとゆっくり車輪を回す。ついでにコンビニへ寄ってお昼ご飯も買い、外での用事は終了だ。


 コンビニで買った鮭のおにぎりを頬張りながら、自室の扉を開ける。部屋に入るなり、喜ぶように狭い水槽の中を踊り狂っているハナが目に入った。


「お。ご主人の帰宅がそんなに嬉しいか。よし、褒美をつかわそう」


 早速買ってきた金魚のえさの封を切る。手近にあった使い終えたサックスのリードで少量をすくい、上から振りかけると、ハナはものすごい勢いで食いついてくる。


「……私が帰ってきたのが嬉しいんじゃなくて、お腹が空いてただけ?」


 トントンと、水槽を叩いてもまるで見向きもしない。可愛くねー。食い意地が張ってるだけのただの魚じゃないか。いや、言葉通りただの金魚なのだけど。それにしてもなんと飼い甲斐のない奴だ。


「お前なんか、花火柄じゃなかったらすくってなかったからな?」


 そう捨て台詞を吐くと、ハナは後ろを向きこちらに尾を振った。馬鹿にしてるのだろうか。魚のくせに、なんとも生意気だ。
 怒り混じりのため息をつきながら、私は一階に向かう。新しい水槽を用意するためだ。もっとも水槽といっても金魚鉢である。金魚を飼うなら、やっぱりこれでしょう。


 一緒に二種類ほどの金魚藻も買ってきたので、合わせてセットし水を入れる。先ほどの食い意地を思い出し、この金魚藻すら食べ尽くしてしまうのではないかと心配になる。
 金魚藻も案外高校生にとっては安くないので、そうそう何度も買いたくはない。食べ尽くすようだったら取り上げよう。


(あと、カルキ抜き剤を入れて……、明日の夜ぐらいまで置けば大丈夫かな。金魚は丈夫だし、いけるでしょ)


 カルキ抜き剤を垂らして、念のためシンクのそばに一晩と少し放置。これで新居の準備はOKだ。
 そういえば幼い頃、夏祭りですくってきた金魚を、カルキ抜きしていない冷たい水道水にぶっこんで一晩で死なせたことがある。思えば、自業自得で誰も責められず、泣きじゃくる私の頭を撫でたのは……。


 ――そういえばあのベタをプレゼントにくれたのも    いや、止めよう。


 過去は過去、今は今。一階での用事を終えた私は自分の部屋に戻り、ベッドに横たわってハナの様子を見ていた。まだ小さいが、やはりその花火模様は綺麗だ。こういう金魚は観賞用の高級金魚になるらしいが、なぜ金魚すくい行きになったのだろう。


 あぁ、きっとあれだ。あの人間に懐かず、わがままに泳ぎ回る傍若無人な性質では、成長する前に体が傷だらけになってしまうのだと思われたんだろう。
 はぐれもの。綺麗に咲き誇る花火柄をじっと見つめているうちに、段々とまぶたは重たくなってくる。


***




 ――ん。ハナを見ていたらいつの間にか眠ってしまったらしい。寝汗で張り付いたシャツの気持ち悪さと、まとわりつく西日の日射とで目を覚ます。
 夢を見るほど深く眠ってしまった、これは夜に眠れないパターンに違いない。それにしてもどうにも懐かしい夢だった。あの山の上、公園、ブランコ、夕日、二人乗り……、今はよそう。


 それにしても、もう夕方なのか。いつの間にか日は短くなってしまったようで、夏休みはまだ続くが、夏の終わりは確実に迫ってきていた。
 汗ばんだシャツのボタンを外しながら、シャワーを浴びに行こうとタンスの着替えをあさっているとき、何かの違和感に気が付く。何かが、おかしい。自分の部屋にも関わらず、借りてきた猫のように、恐る恐る部屋を見渡す。


「アレ?」


 目をこする。ついでに頬を叩く。まだ夢から覚めていないのか。目に映る光景が信用にならない。


「――ハナの引越し。もうやったんだっけ?」


 水槽の中は空。もぬけの殻。小さな水槽の中で、エアレーションの気泡だけが寂しく舞っていた。遮蔽物などない。隠れる場所はない。
 どこに行ったのだハナは。元気が良すぎて水槽から飛び出したのか。いや、部屋のどこにも金魚の後はない。水がこぼれたあともない。神隠し。行方不明。意味不明。


「――……昨日から、ずっと夢だったのかな」


 最近練習で疲れていた。名目ばかりのやる気のない吹奏楽部に出席し、そのあとの山での個人練習も欠かさずやっていた。その疲れだろう。だいたい、1,200円もかけて金魚すくいなどやるわけがない。全部夢、夢。
 そう思って一階に降りる。きっと夢だから、シンクに水槽があることも、


「……え、なんで――?」


 また目をこする。狐に化かされているのだろうか。
 シンクで準備されている、金魚藻が浮いている水槽の中にハナがいた。


***