食人植物 5


 翌日。日差しが森の深奥にも届き始める頃。薄明かりで目を覚ました神樹は、エヴァを揺り起こす。


「起きてエヴァ!」
「ん……ずいぶん早起きですね、神樹様」


 重い瞼をこすりながら、欠伸をするエヴァ。扇情的な姿は、どうみても女性にしか見えない。


「約束でしょ? お話を聴かせて」


 記憶のほとんどがこの森と村の少女達の思い出に縛られている神樹にとって、エヴァの旅物語はどうしても待ち遠しくて仕方のないものだった。


「そうですね……では、ウミの話など如何でしょうか?」
「ウミ? えっと……すっごい大きな水たまりのことだったっけ?」


 見たことはない。少女達の記憶にもない。ただ、陸の果てには途方もないほど大きな水たまりがある、というのは聞いたことがある。
 神樹の発言に、エヴァは笑った。


「何かおかしいの? 間違ってる?」
「いえ、そうですね。間違ってはいません。とても大きな大きな水たまりです。それはもう、向こう岸が見えないほどの大きな」
「想像できないわ。一体どれだけ雨が降ったらそんな水たまりができるの?」
「ははは。雲の上で神様が100年ぐらい泣いたら、そうなるかもしれませんね。涙とおんなじで、海の水はしょっぱいですし」


 神樹が疑問を言葉にする度に、エヴァは笑う。最初は腹が立ったが、小さなことにもちゃんと答えてくれるので、神樹は笑顔を見るのが楽しくなってきた。
 海というもの一つとっても、自分が知らなかったことがこんなにあって、こんなに面白いとは。


 ユキというゆっくり降りる氷の雨、果てのない平原、空に架かる五色の橋、夜空に浮かぶ光の衣、海の向こうの大陸、そこに住むという一本足の人間。
 エヴァの話を通して見る世界は、どこまでも綺麗で、輝いているように見えた。


「大陸の話は私も聞いただけですけどね」


 ひと呼吸を置いて、エヴァは続けた。


「私が見た中で、一番綺麗だと思ったのは、星の雨ですね」
「星の雨?」


 星、ぐらいなら知っている。夜になると空で光っているあれだ。しかし、それが雨のように降るということだろうか。
 だとしたら、そこらじゅう焼けてしまうのではないか?
 不安そうに聞くと、エヴァは涙を浮かべるほど大きく笑って、安心してくださいと言った。


「確かに街の人々はそんな風に、星の雨を怖がっていますね。でも、焼け野原になったりはしないですよ」


 あんまり笑うので、少し不機嫌になった。それを察したのか、エヴァは星の雨に関わるエピソードを一つ話し始めた。


「私は一度、星の雨に助けられたのですよ」
「星が追っ手を焼き尽くしたのね!」
「だから、星の雨は大地を焼いたりしませんって」


 エヴァは困惑しながら、神樹の物騒な推測を優しく否定した。


「私が追われ、とある街に逃げ込んだ時のことです。その日は運悪く雲のほとんどない満月で、夜になっても追っ手に探されていました。幸い路地裏の酒樽の裏に紛れ込んだものの、追っ手立ちは執念深くそこら中を調べていて、見つかるのは時間の問題でした」


 エヴァの逃亡劇を、神樹は固唾を飲んで真剣に聴く。


「いよいよ酒樽の前まで追っ手が迫り、樽がどかされようとしたとき、街中から悲鳴が聞こえたのです」


 空が! 空から星が降っている!


 そういう叫びが、街中でどこからとなく聞こえ、追っ手達も恐れをなしたのか、蜘蛛の子を散らすようにどこかへ行ってしまったという。


「追っ手がいなくなったはいいものの、私も空の様子が気になりました。狭い路地からではよく見えず、また路地から出ては追っ手から見つかるかもしれない」
「それで、どうしたの? どうやって星の雨を見たの?」


 待ちきれずに急かす神樹をなだめながら、エヴァは続きを話した。


「空の酒樽を少し動かして上に載り、路地にある小さな教会の雨樋に手をかけて、屋根の上までよじ登りました。その時に、精巧に作られた獅子の石像が壊れてしまったのですが――」
「雨樋の話はいいから!」


 話が脱線するエヴァの頭をツタでピシャリと叩く。まだ力が弱いので傷つくことはないが、痛みにエヴァは額をさする。


「叩くなら、もう話しませんよ?」
「ごめんなさい。もう叩かないから聴かせて?」


 少しふてくされたエヴァに謝り、続きを促す。渋々エヴァは語る。


「――そこから見上げた西の空に、光が弧を描きながら地平線の彼方へ消えて行くのが見えました。偶然、月が雲に隠れたおかげで、とても綺麗に。それがまるで、雨が降るみたいに、何本も何本も」


 地上に降り注ぐ幾千の星の軌跡を、そのままずっと見ていたという。図らずも自分を助けてくれた、希望の雨を、ずっと。


「――あたしも見たいな。星の雨」
「ずっと空を見上げていたら、いつかきっと見られますよ」
「そうなの!? じゃあこれから毎日、夜は樹の上で空を見てる!」


 首が疲れてしまいそうですねと、エヴァが付け足して星の雨の話は終わる。


「いいな。あたしもエヴァみたいに、世界中を歩きたい」
「追われながらの旅なんて、生きた心地がしませんよ。ところで、神樹様は、いつから、なぜここにいらっしゃるのですか?」


 言葉に詰まる。なにせ神樹がここに根を下ろしたのは200年前だ。そんな昔のこと、ほとんどうろ覚えだし、時系列も曖昧になっている。


「……ちょっと思い出して整理するまで、時間を頂戴」
「はい、お待ちしてます。でも、お話できるのは明日ですかね?」


 エヴァの話を聞いているうちに、もうすっかり夜も暮れてしまっていた。エヴァも話し疲れたのか、眠たそうにしている。


「そうね。じゃあ明日までに、思い出しておくわ」
「はい。おやすみなさい、神樹様」
「おやすみ、エヴァ」


 そう言って、神樹は樹の上に登っていく。こんな高いところまで登るのは初めてだった。


「――残念」


 夜空は雲に覆われていて、いつもの星も見えないほどだった。いつか星の雨に逢えるだろうか?
 いつか来るかもしれない未来を楽しみにしながら、神樹は眠りについた。


***